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以下の話は私の個人的意見であって、笑い飛ばしてかまいません

掲載しようか6か月悩みましたが、ぜひお読みください

 

先日、知り合いから、盛岡銅山銭の集大成ともいうべき資料をみせられた。

そこには、近辺で知られている、所有者のはっきりした、銅山銭が14枚、

写真で並べられていた。

おどろいたことに、それらのうち10枚には、同じ特徴があった。

それは、①山字右側のくぼみ、②盛字左と縁の間のくぼみ、➂百字の第1画終わりの部分の鋳だまりと縁への切れ込み、④背面右縁のくぼみなどですが、最も特徴的なのは➂ですぐにわかります。

(写真はこれらの特徴をもった銅山銭なのですが、ヤフオクで4000円で売ってました。まだ出品されています)

また、その10枚は、このとき集められた写真でみるかぎり、すべて、状態のよいものが多いように思えました。

まず、状態の悪いものがないのはおかしい気がした。

このことは、仙岳氏が書いている銅山銭の記述とまったく矛盾する。

また、これらに同じ特徴があるということは、ある母銭から作れた銅山銭だけが状態がよく、現存し、過半数を占めている、ことになるからである。

それよりも。

もっと恐ろしいのは、私が見た仙岳氏、水原氏、白雲居氏の拓本帳、岩手古銭会雑誌(戦前)、南部藩銭譜、東京大学蔵品(昭和3年寄贈)、雑誌古銭(戦前)などに載っている銅山銭10品以上には、この特徴のある銅山銭がなかったことである。これは、戦前の盛岡には存在しなかった、あるいは意図的に掲載しなかったことを意味しているのではないだろうか。戦前になく、現在は半数を占めているというのは、確率的におかしい。引間氏健在のころ、銅山銭は、背面の百の第1画に向かって縁がはみ出しているもの(たしか、南部貨幣史に載っていた旧水原氏蔵品)以外、だれも危なくて手が出せなかった。

 

A今回の一覧表




B雑誌古銭、東大,南部藩銭扶、南部貨幣史、岩手古泉会(戦前)白暈居、水原








特徴あり なし



A 10 4



B 0 16









BはI一部重複している可能性がある。白暈居も銅山を作ったという説があるが、この表からすると、今回の特徴おある銅山は作っていないことになる。



























盛岡銅山は何のために作ったことになっているのだろうか

よく言われている説が3つある

    尾去沢鉱山の山内通用銭

    藩内に広く流通させる目的

    天保銭密鋳の見せ金

 

    に関しては、同鉱山では山内通用銭はなく、普通の銭が流通していたのでありえなかろう。山内通用銭が必要なのは併設される銭座があり、銭を盗用することを止めたいからである。また、鹿角地方から銅山銭がでたという報告もない。仙岳氏が鍵屋(次の代の人)に銅山銭について聞いたところ、知らない、といったと記述している。

➂に関しても栗林での銅山銭鋳造の前から、すでに室場での天保銭密鋳が始まっている。さらに銅山鋳造とまったく同時期には、浄法寺山内銭座での天保銭鋳造が始まっている。いまさら、栗林で見せ金として銅山を作るのは無意味である。(栗林は公的には分座の扱いなので、必要だったという理屈はなりたちますが、、、)

唯一可能性があるのは、②で、長崎廻銅の廃止、尾去沢鉱山の大増産で、余った銅の使い道として藩内通用銭を作る目的だった、という説である。秋田藩の鍔銭のような存在を想定したのだろうか。この場合に限り採算がとれなかったので中止という理屈がまかり通る。

しかし、栗林銭座で使用する銅母銭は鋳造できても、銅山銭は鋳造できず、その後の天保銭は鋳造できた、、というのは誰が考えてもおかしい(こういったのは銭幣館の田中啓文先生です)。ほとんど経験者がいなかった、浄法寺山内銭座が失敗を繰り返したが、なんとか採算が取れる銭をつくっているのが、いい例である。

 

仙岳氏は、銅山銭の残存が少ない理由として以下のことを挙げている

    尾去沢銅山で、引継ぎのさいの兌換が適格に行われ、藩に回収されたから

    天保銭よりも、わずかに、小さく、軽かったため、贋金として排除された。

このうち、①に関しては銅山を引き継いだ鍵屋自身が知らないと言っていた、と仙岳が記述しているところから違うであろう。②に関しては当時、大小さまざまな天保銭が流通していたが、偽金として排除されたという話はあまり聞いたことがない。山内天保も大小があるが、それで排除されたという話は聞かない。明治になってから、天保銭も新銭に引き換えられたが、軽くて兌換されなかった話は聞かない。

 

ところで、以前このブログに登場した、銅山銭の鋳造者、宮寿氏が鋳造したものが3期銭である、といったのは、水原氏である。しかし、よーく岩手に於ける鋳銭を読むと、すでに大正4年の時点で、2期銭、3期銭が存在している。これはどういうことだろうか。本当にはじめから1,2,3期銭が存在するという説を唱える方もいるようだが、その鋳造方法は多くの方に否定されている。おそらく。本当のところは、最初、冗談で少量作ってみたが、評判がよく、2回目を発注したが失敗、3回目の発注で3期銭ができた。これは大正4年以前の話で、おそらくその後も少量ずつ作り続け、最後は、宮氏が作成した。というところであろう。この間、銅色などもかえてみただろう。特に鋳造専門家である宮氏には、銅色や形が1期銭に似るように発注したにちがいない。

 

このころ(宮氏が鋳造した昭和10年ころ)には、盛岡ではある程度の収集家がこれらの鋳造に気づいていただろう。水原氏はある時期から古銭から身を引き、再デビューは南部貨幣史の、昭和44年である。おそらく、その原因こそ、自分が中央に紹介した(おそらく分譲もしただろう)銅山銭が後鋳品であることに気づいたためではなかろうか。水沢の古銭商が仙岳氏をたずねたとき、こたつの中に銅山銭が多数うるしてあった、というのは、この時期だろう。

 

じつは、私は盛岡市の貨幣商であった、引間氏健在のころ、彼が初出しの銅山銭の鑑定を行った場面に立ち会ったことが2回ある。2回とも、私の同級生の盛岡市内の老舗にあったもので、いずれの店も仙岳氏がよく訪れている大店である。1回目は2期銭で、鑑定後、所有者が、どうせ偽物だからとしばらく貸してくれたので、消しゴムをかけたり、おはじきにして遊んだ。(その後返却)。2回目は3期銭で、ほとんど使った痕跡がなかったのを鮮明に覚えている。市内の旧家で、仙岳氏が書画骨董を納めていた、あるいは鑑定などで訪れていたところには彼が納めた、銅山銭が存在する可能性がある。つまり、銅山銭の最大の供給源は市内の旧家で,仙岳氏が通っていたところ、ということになる。

 

ところで,仙岳氏が宮寿氏に銅山銭の鋳造を依頼した際、母銭はどうしたのだろうか。おそらく出来の良い1または2期銭を渡したことだろう。そしてその銭に大きな特徴があれば、宮氏の作成した銅山銭は同じ特徴をもつことになる。宮氏は収集家ではないのでそのようなことは気にも留めなかったであろう。新聞記事にもあるとおり、相当数作った、とあるので、宮氏の制作数は10枚程度ではなかろう。宮氏は石膏型どりの名人であったらしいから、おそらくその方法で型をとり、銅山銭を作成しただろう。

南部貨幣史の編集後記部分をよめば、水原氏はすくなくとも3人の鋳造者を知っていたことになる。工業指導所まで巻き込んで制作し、宮氏自身も仙岳氏が本物として売却することをしらなかったとすれば、当然その鋳造はいろいろな方の知るところとなったと思われる。つまり、この当時の盛岡の古銭関係者の間では、仙岳氏が銅山銭の鋳造を依頼して制作していることは、多くの方がうすうす、知っていた事実なのであろう。

 

再度書きますが、私は銅山銭がすべて架空の産物だと思っている人間です。

仙岳氏の冗談から始まったのだろうと思っています。

土佐通宝、筑前通宝、仙台通宝、秋田鍔銭など、岩手には郷土の名前のついた貨幣がないことから、新たな新銭の制作を考えた仙岳氏は天保銭型の新銭の鋳造を企画しました。

銭名は盛岡銅山とし、尾去沢鉱山の山内通用銭目的で作成したことにしたのです。

xx通宝にしなかったのは、明治31年で天保銭は通用を停止していましたが。贋金作成といわれないようにしたのだろうと思われます。少量作って、頒布してみたが,好評であったため、3回にわたり、少量づつ作成しました。なにしろ、当時の歴史の大家がくれるものだから、疑う人はいなかったと思われます。ここでやめておけばよかったのですが、大正4年、岩手公論に連載した、岩手における鋳銭、に載せてみようと考えました。このようなローカルな雑誌は中央ではだれも見ないと思ったことでしょう。まず、盛岡銅山の銭文を江戸の高名な書家、高斉単山に依頼し書いてもらったことにし、鋳造場所は栗林銭座を選びました。大迫は公認銭座ですからはずし、ある程度の規模のある銭座となると、橋野か栗林なのですが、橋野銭座の鋳銭棟梁、菊池米治がまだ健在で盛岡にいましたので、栗林にしたのでしょう。岩手における鋳銭の盛岡銅山鋳造の部分は他と比べて異常に詳しく、この点を後世に指摘されています。氏は、ここまでかけば冗談だとだれか気づくとおもっていたのでしょうが、だれも文句をつけませんでした。さらに悪いことに、水原氏が、同書を中央に紹介してしまったのです。ここで、もう、後戻りはできなくなりました。中央に紹介された記事を水原氏が氏に伝えたとき、氏は、顔面蒼白になったとの記述があります。この時点では銅山銭鋳造は金儲けの手段ではなかったと考えます。その後中央から多数の収集家が盛岡をおとずれますが、氏はだれとも会おうとはしなかった、ということです。

その後中央の古銭収集家によって、2,3銭が贋作であることが明らかとなります。

田中桂文氏は銅山銭の原母銭も問題がある、と述べています。氏が贋作者とレッテルを貼られたため、岩手における鋳銭をはじめ、簗川鋳銭、山内鋳銭、室場鋳銭などの重要な文献は全く参照されることなく、現在では寄贈先の岩手県立図書館で眠り続けることになりました。

仙岳氏の遺稿といわれる、岩手における鋳銭は詳しく、出典も記入されていますが、大迫銭座のみで終わっており、真相はついに明らかになりませんでした。

仙岳氏が死去してから20年後の昭和44年、水原氏が南部貨幣史を著わし、2,3期銭が仙岳氏による鋳造であることを、後記の形で掲載しました。この時点で、水原氏は30年近く、古銭からと身を引いていたはずです。南部貨幣史は多くの方から絶賛されたのですが、その内容は、まったく仙岳氏の著作を無視した形でした。その後、とくに簗川銭座を中心に同書の誤りが指摘されています。

その多くは仙岳氏の著作が銅山銭の部分を除いて正しかったことを証明しており水原氏がなぜ、仙