2021年12月

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こうゆうのが、好きなんです。
この砂は、目が細かく、鋳銭時のものと思われます。
鋳銭場には砂をおとす係の小僧がいたことを、仙岳氏が書いています。
この状態では、文字がうまく出ないでしょう。
各銭座で砂を母銭から落とす工夫をしていたようです。

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拡大するとわかりますが、背の盛のあとにある波はほかと異なっており、
うねっていますし、両端が細くなっています。
称浄法寺銭といえば、天保銭の鋳放しが有名ですが
この、盛無背にも鋳放しと仕立て銭が見られます。仕立て銭の特徴は両面の磨輪が強すぎ、縁がとんがっているように感じることです。現在称浄法寺銭は評価が低いので、手に入りやすいでしょう。

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もう20年以上前、秋田の骨董屋から15枚、天保銭を買った。
外側のさびが続いていたので、同一のでどこであろう。
すべて秋田銭で、未使用に近い、金色系の色であった。
広郭と、広長郭があり、細郭はなかった。
ふつうにみられるものと並べてみました

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一番下は水戸銭であるが、違いは歴然としている
南部銭はわずかに小さく、色が違い、表面にぶつぶつがある、とカタログなどに書かれているが
もっと特徴的なのが縁の凸凹で、これは必ずある、ぶつぶつのほうは裏にあるので、よく見てほしい
栗林広穿は水原氏が栗林銭座あとを発掘したさい、見つけているので、栗林でつくったことはまちがいない。では、ほかの銭座ではつくらなかったのか、といえば、たぶん、作っていないだろう。
母銭は源六が水戸を訪れた際、もらい受けたものだろう。はじめに使ってみたが、できた銭が小さすぎ、中止したのではないだろうか。栗林では水戸と違って鉄は豊富にあったから、節約する必要はなかった。おそらく、栗林でも初期のほうの作品ではないだろうか。母銭の縁の処理のしかたが、後期銭と違っている。
もし、そうなら、銅山にもこのような特徴があってもいいかもしれないが、未見である。

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反玉はもう20年近く前、盛岡の古物商から買った30枚の天保銭に交じっていた。
そのとき、もう一枚不知銭が混じっていたのが、これです、一見して不知とわかる品です。
このときの30枚は長郭22枚、広郭4枚、細郭1枚、に不知銭2枚でした。

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