2021年12月31日 砂のついた母銭 こうゆうのが、好きなんです。この砂は、目が細かく、鋳銭時のものと思われます。鋳銭場には砂をおとす係の小僧がいたことを、仙岳氏が書いています。この状態では、文字がうまく出ないでしょう。各銭座で砂を母銭から落とす工夫をしていたようです。
2021年12月25日 盛無背 称浄法寺銭 拡大するとわかりますが、背の盛のあとにある波はほかと異なっており、うねっていますし、両端が細くなっています。称浄法寺銭といえば、天保銭の鋳放しが有名ですがこの、盛無背にも鋳放しと仕立て銭が見られます。仕立て銭の特徴は両面の磨輪が強すぎ、縁がとんがっているように感じることです。現在称浄法寺銭は評価が低いので、手に入りやすいでしょう。
2021年12月24日 同じ銭なのか 秋田広郭 もう20年以上前、秋田の骨董屋から15枚、天保銭を買った。外側のさびが続いていたので、同一のでどこであろう。すべて秋田銭で、未使用に近い、金色系の色であった。広郭と、広長郭があり、細郭はなかった。ふつうにみられるものと並べてみました
2021年12月23日 栗林広穿と水戸広穿 一番下は水戸銭であるが、違いは歴然としている南部銭はわずかに小さく、色が違い、表面にぶつぶつがある、とカタログなどに書かれているがもっと特徴的なのが縁の凸凹で、これは必ずある、ぶつぶつのほうは裏にあるので、よく見てほしい栗林広穿は水原氏が栗林銭座あとを発掘したさい、見つけているので、栗林でつくったことはまちがいない。では、ほかの銭座ではつくらなかったのか、といえば、たぶん、作っていないだろう。母銭は源六が水戸を訪れた際、もらい受けたものだろう。はじめに使ってみたが、できた銭が小さすぎ、中止したのではないだろうか。栗林では水戸と違って鉄は豊富にあったから、節約する必要はなかった。おそらく、栗林でも初期のほうの作品ではないだろうか。母銭の縁の処理のしかたが、後期銭と違っている。もし、そうなら、銅山にもこのような特徴があってもいいかもしれないが、未見である。
2021年12月16日 反玉と一緒に出た不知銭 細郭手 反玉はもう20年近く前、盛岡の古物商から買った30枚の天保銭に交じっていた。そのとき、もう一枚不知銭が混じっていたのが、これです、一見して不知とわかる品です。このときの30枚は長郭22枚、広郭4枚、細郭1枚、に不知銭2枚でした。