2020年04月

何回も書きましたが、盛岡藩の天保銭鋳造は尾去沢産銅の増加と大きな関係があります。
はじめに鋳銭を始めたのは室場ですが、ここは小野権衛門と砂子田源六の共同経営でした。仙岳氏の室場鋳銭によれば、いろんなところから職人を雇い入れ、銭の出来もよかったことになっております。
そのあと開始された栗林での鋳銭が、同じ経営者なのにまったくダメだった(とくに盛岡銅山)とは、どういうことでしょうか。また同時期に浄法寺山内銭座でも鋳銭を開始。こちらは経験者が少なく、うまくいかず、苦労してます。このような状況のなかで、(おそらく大金を払って)江戸の書家、高齋単山に依頼して盛岡銅山の文字を書かせ、それをもとに母銭をつくり、鋳造した(岩手における鋳銭に記載)となれば、もはや、密造ではなく、隠れて行う必要はまったくないのではないでしょうか。また、たかだか1鉱山の山内通用銭にここまで手をかけることはありえないと思いますが。年表のように、当時すでに長崎廻銅は廃止されており、藩は銅を自由に使えるようになっていました。盛岡銅山に関する記述はこのように最初からおかしいのです。
土佐通宝、筑前通宝など地元の名前のついた古銭を知っていた仙岳氏は、郷土の空想貨幣制作をおもいたち、盛岡銅山という架空銭を制作、それを(地元の人しか読まないと思った)岩手における鋳銭に挿入したのではないか、とういうのが私の想像です(勝手な意見です)。仙岳氏が生存中はいろいろ出現した盛岡銅山はここ数十年、あらたに発見されたと聞いたことがありません。私の同級生の盛岡市内の旧家、豪商2軒には盛岡銅山が保存されており、2期銭と3期銭でした。、いずれも仙岳氏と親交のあった家で,1軒では仙岳氏から譲られた、とはっきり言っておりました。

1848嘉永元年 簗川天保前期鋳銭(簗川鋳銭)

 

1850嘉永3年 8月簗川天保後期鋳銭(簗川鋳銭)

 

1857安政4年 盛岡藩、第1回鋳銭願い提出するも不許可

          12月(1858) 大島高任が盛岡藩大橋に洋式高炉を建設

 

1858安政5年 橋野にも洋式高炉

          鉄の増産が始まり、販路を必要としたため、鋳銭事業が考えられた

 

1859安政6年 盛岡藩、第2回鋳銭願い提出するも不許可

 

1862文久3年 盛岡藩、第3回鋳銭願い提出するも不許可

 

1863元治元年 盛岡藩、第4回鋳銭願い提出するも不許可

     

1864慶応元年 発破法の採用により尾去沢

          鉱山の産銅量が100万斤を超え長崎廻銅用の72万斤を大幅に超える。 

          盛岡藩、第5回鋳銭願い提出、許可される

1865慶応2年 5月大迫銭座鋳銭開始(岩手に於ける鋳銭)

 

1866慶応3年 長崎廻銅廃止。100万斤以上の銅の使い道を考える必要がでてきた。

          春、前期室場天保鋳銭開始(室場鋳銭)

               8月栗林銭座開座(岩手に於ける鋳銭)

          秋、浄法寺山内銭座開座(山内鋳銭)   

        盛岡銅山鋳銭開始(岩手に於ける鋳銭)

          冬、前期室場鋳銭停止(室場鋳銭)

        12月山内銭座鋳銭開始(山内鋳銭

          盛岡銅山鋳銭停止(岩手に於ける鋳銭)

1867慶応4年 1月、山内銭座前期鋳銭終了 (山内鋳銭)

          4月 山内銭座後期鋳銭(山内鋳銭)

               6月 橋野銭座開座(岩手に於ける鋳銭)

          砂子渡銭座開座(岩手に於ける鋳銭)

          大橋銭座開座(岩手に於ける鋳銭)

1871明治4年 年末、後期室場天保鋳銭(室場鋳銭)すぐに停止

 

 意外なことに、簗川を除けば、鋳銭時期が早いのは室場前期銭である。仙岳氏は室場、栗林、山内でそのつど母銭を調達したことにしているが、これら3地域の鋳銭はほぼ同時期であることを見逃してはならない。

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