2018年02月

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明治17年に開催された岩手県勧業博覧会のメダルで三等となっています。
以前、明治期の造幣局長の報告書を読んでいた時、明治18年の報告書に
17年の岩手県博覧会事務局が発注したメダルを製造したことが記されていました。
その後ヤフオクで出品されているのを発見し落札しました。
造幣局にメダルを発注するような洒落たことをだれが考えたのでしょうか。
この年は京都と岩手しかありません。製造枚数は525枚ですが、このメダルの三等の部分はあとから削って加刻されています。一等、二等の表示のものはあるのでしょうか。なお、このメダルは県立博物館に常設展示されているそうですが、それも三等のものだそうです。

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左は29.7mmの大様銭で、台形型をしている。
右は最後期の鋳銭と推定しているもので
鋳銭技術の進歩により縁の角を削っている。面、背両方削っているが、均等ではなく、背のほうが急峻で幅広く削られている
これは型から母銭をはがれやすくするための技術の進歩である。

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大様ですが、私鋳でしょう。本銭は盛岡紺屋町で第3日曜日のアンチック市が始まった初日に、出店していた遠野の古物商が売っていた藁差しにはいっていたものです。

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いまから30年ほど前、ヒキマ古銭店のご主人から、大迫の初鋳系の母銭として譲られました。鋳銭記か岩手における鋳銭のどこかに、大迫の初鋳の母銭の材料は尾去沢の銅ではなく藩外から買い求めたものである。という記述を読んだ記憶があります。よこからみると寛永の文字面を上にした台形型となっています。この色の背盛は大迫のみとのことでした。本当は当時増産されていた尾去沢の銅を使用したかったはずですが、増産が幕府にばれると長崎廻銅の量を増やされる可能性があることうを考えたものと思われます。

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たくさんメモリーを消費しましたが、必要と思われるため掲載します。
1980年12月号で執筆は南部古銭研究会となっていますが、秋田の方なそうです。南部古泉研究会ではありませんのでご注意ください。いろいろ引用されている
金属の成分分析は本記事からの引用です。本記事は東京の某氏がにせもの説を出したことへの反論の形で始まっています。

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