2018年02月

明治元年、秋田戦争の終了後、盛岡藩で二分金の贋造を行った。これは以前尾去沢鉱山内で二分金の贋造をおこなった者を釈放し職人にあてた。贋造いずれも藩が関与し、4期にわたって行われ以下のとおりである。

第一回の鋳造 盛岡市呉服町 平治宅   鋳造量 9000

第二回の鋳造 盛岡市十三日町 三物屋宅 鋳造量 30000

第三回の鋳造 遠野市  村上宅     鋳造量 7000

第四回の鋳造 遠野市附馬牛妙泉寺近くの なめり 鋳造量 7000

平治と聞いて南部貨幣史をお読みになった方は覚があると思うが、八匁銀判の製造場所である。また贋造職人のなかに、木村筆五郎という、水原氏が八匁銀板製造を聞き出した人物がいる。方法は小坂銀山の産銀をたたいてのばし、金メッキを行ったと思われる。現在銀台とよばれる明治二分金の中に、盛岡藩贋造品が混じっているわけである。残念なことに、拓本の貼付はない。このとき使用する水銀で死者が出ている。政府の追求をのがれるため、だんだん田舎に移ってゆく。4回目の なめり という場所は現在の妙泉寺ではなく、その当時妙泉寺となっていた、現在の早池峰神社のことであり、大出の山奥である。それにしても、4回もの贋造をするとはよほど利益がでたのであろう。

また鋳銭とちがい場所をとらず、職人も少ないため露見の可能性も少なかったと思われる。

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簗川鋳銭の表紙です。拓本は2枚が貼られており、水戸短足寶、潤字退寶です。
なぜ新渡戸氏がこの2銭を簗川鋳と考えたのかは、中には書かれておりません。
なにか理由があるはずですが、、、、

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拓本部分の写真が抜けていましたので追加掲載します

に止め
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  新渡戸仙岳著、山内鋳銭の表紙です。2枚目には銅山手(盛岡中字)の拓本が、
3枚目には盛岡大字の拓本が貼付してあり、その後に文章が始まっています。
文章の内容は以前岩手古泉会の記念誌泉寿に澤井敬一氏が翻訳した内容を掲載してますのでそちらをお読みください。なぜか小字は拓本がありません。新渡戸氏の拓本帳には小字の拓本がちゃんと存在していますから、氏が山内銭座では小字は鋳造していないと考えたのでしょう。考えみれば大字、中字、小字という名称はあとから収集家がかってにつけた名称です。

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先日県立図書館でみつけました。雑誌ボナンザの1973年3月号一部です。この時期は、南部貨幣史が1969年(実際の発行は1970年にずれこんだ)に発行され、盛岡銅山の2期3期銭が偽物であるという事実がはじめて文章化された4年後のことです。この記事の内容の半分以上が盛岡銅山の贋作について書かれていますので、ぜひともお読みください。特に田中啓文氏の指摘点や、沢井氏の贋作の製造方法をそのまま破草鞋に2期銭、3期銭の鋳造方法として書き込んだという記述は私とまったく同じ考えです。ただ、以前かいたように、3期銭の鋳造者M氏の勤務先は県立工業試験場ではなく、県立工業指導所であり、その鋳造時期は昭和5年ころ、と本人による記述物があります。とするとこれ以前にすでに3期銭は存在していましたので、さらに別の人物が作成したものが存在するということになります。

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