2017年11月

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白雲居氏の拓本帳からです。南部貨幣史では簗川鋳ななっておりますが、どうでしょうか。これをご覧になった方は当然山内通用銭ではないことはお気づきのことと思います。おそらくは山神のおまつりで奉納された絵銭と思われます。そう考えると、背山の鉄4文銭がおなじように山神のおまつりで奉納された絵銭であるという、故、引間氏の意見は正しいような気がします。

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古くから、栗林座のものとされている。砂子田源六が水戸から持ち帰った水戸広穿を
鋳写したのであろう。水戸のものと並べるとすぐわかるのであるが、特徴は
肌の色のほか、鋳だまりがあるものが多い、縁も均一に平らでなく凹凸がみられる。
また、わずかに小さい。南部貨幣史には水原氏が栗林銭座跡を掘り、そこからみつけた鉄銭に交じっていたとの記述がある。明らかに4文銭としては小さいので、鉄が多量にあった当時としては鋳造量は少なかったであろう。拓図は白雲居氏の拓本帳からで、上が水戸、下が南部ではないかと思われる。鉄銭の存在も多くない。

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白雲居氏の拓本帳には4枚の極印銭があります
このうち2枚は仰寶の米字極印で、掲載を省略しますが。のこりの2枚が問題です。
なんと、仰寶大字と栗林広穿の小極印銭です。
これが本物であれば小極印銭は栗林銭座ということになります。
最近の新寛永銭譜にはのっていませんが昔の銭譜には、背山米字極印とか、極印8つうちなどが掲載されていたんです。
ところで絵銭が大好きであった白雲居氏が虎銭や大黒銭の極印打ちをもっていなかったのは不思議です。(銅山銭や下点盛は多数所持されていたんですが、、、)

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水原氏蔵の小極印銭です。
打たれているのは、仰寶、背盛、虎銭、大黒銭です。
私は、本物と思われる大黒銭を見たことがありますが、
非常に深く打たれていたのが印象にのこっております。
どこで使用されたかについては情報が混乱しております。
仙岳の鋳銭記では栗林、橋野両方で使用された記述があり混沌とした状態です。
極印が盛岡銅山と同じものなのであれば栗林でしょうが、橋野銭座については
当時生存していた番頭の菊池米治の話を仙岳はきいており信ぴょう性が高い可能性があります。しかし、鉄銭座であった両銭座に大量の銅製虎銭、大黒銭があるのはなにか不思議です。 小極印は鋳銭禁止令とともに藩が手を引く状態で回収され、多くは出回らなかったということです。その後米字極印を使用するのですが、それは江刺県による密鋳の大検挙により山外に流失したため存在数が多くなっているというのが、
私がヒキマ古銭店主人(以下引間氏)から聞いた話です。ちなみに米字極印は菊池米治がつくった極印だからよねじ極印だ、というのを仙岳の著作のどこかで読んだ記憶があります。

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ついでに白雲居氏の拓本帳にある盛岡銅山の拓をお見せします
氏の拓本帳は同じ古銭の拓本は貼付されていないので、すべて別の銭と思われます
これら8品のうち背の同じ部分に鋳溜まりがあります。つまり同じ母銭からのもの
と思われます。
氏は仙岳氏と明治30年以前から知り合いでした。
仙岳氏が差し出した白雲居氏あての明治30年の記念切手を貼った美しい年賀状を私は所持しております。

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