栗林広穿は南部貨幣史によると、水原氏が当地で発掘したものに交じっていたという記述があるため、栗林銭座で鋳造されたことはまちがいない。栗林無背当四銭と記述されている。当時からその存在は少なかったらしい。実物はかなり小さいので、四文銭として扱われない可能性もあったのではないだろうか。洋式高炉の建設により鉄の過剰生産状態にあった、南部地方では小型の鉄銭はあまり意味がなかったのであろう。
栗林銭座の経営者砂子田源六はたびたび水戸に立ち寄り、鋳銭の情報や技術を習得していたとされているから、水戸の広穿の母銭を貰い受けてきたのであろう。水戸の広穿との鑑別は、栗林銭は小さめで面の縁に凸凹があるものが多い
栗林銭座の経営者砂子田源六はたびたび水戸に立ち寄り、鋳銭の情報や技術を習得していたとされているから、水戸の広穿の母銭を貰い受けてきたのであろう。水戸の広穿との鑑別は、栗林銭は小さめで面の縁に凸凹があるものが多い