2016年09月

栗林広穿は南部貨幣史によると、水原氏が当地で発掘したものに交じっていたという記述があるため、栗林銭座で鋳造されたことはまちがいない。栗林無背当四銭と記述されている。当時からその存在は少なかったらしい。実物はかなり小さいので、四文銭として扱われない可能性もあったのではないだろうか。洋式高炉の建設により鉄の過剰生産状態にあった、南部地方では小型の鉄銭はあまり意味がなかったのであろう。
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栗林銭座の経営者砂子田源六はたびたび水戸に立ち寄り、鋳銭の情報や技術を習得していたとされているから、水戸の広穿の母銭を貰い受けてきたのであろう。水戸の広穿との鑑別は、栗林銭は小さめで面の縁に凸凹があるものが多い

大型の銭で、拓本ではわかりませんが、錫の劣化があるようです。私は背盛の錫母はみたことがないのですが、背の波が太くなってしまっています。
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小極印と米字極印はどうちがうのか、すぐにスカッと答えられる方は少ないと思います。小極印は藩が関与していた、鋳銭禁止令以前に橋野銭座で山内通用銭に使用されたもので、鋳銭禁止令以後は藩が小極印を引き上げたため、米字極印を使用したことになっています。派手であるため、けっこう人気があるのですが、仰寶の母銭が多数存在しているため、偽物を作りたくなる方が多数います。
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昔の銭譜には多数打ち込んだ例がのっていたのですが最近はみかけません。
本銭は表、裏、各4個の極印が打たれており、あまり見かけないタイプです
解説は水原氏によえるものですが、当時かた普通の品は表、裏各2個の打刻であったこと、本品が異例であることがわかります。

初回のブログに盛岡の宮さんの盛岡銅山鋳造の話を書いたが、盛岡銅山には3種あり、(一期銭、二期銭、三期銭)宮氏の鋳造品は三期銭であるといわれている。南部貨幣史にM氏鋳造とあるのは宮氏のことである。今回の拓本は二期銭とよばれるもので、陶はんを使用したため表面がなめらかで色は赤味が強いとされる。私は新渡戸仙岳氏がときおり訪れていた盛岡の豪商にあった盛岡銅山を見たことがあるが二期銭であった。また、小学校の同級生であった、これまた盛岡の豪商の家にも盛岡銅山があり、三期銭であった。実は私は盛岡銅山(一期銭、二期銭、三期銭)すべて新渡戸仙岳氏の空想の産物ではないかと考えている(私の勝手な考えですので笑い飛ばしてください)。後世の収集家の努力によって二期銭、三期銭は後鋳品であることが明らかとなっている。
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この記述には非常に面白い個所がある。それは盛岡銅山の銭文を江戸の有名な書家であった高斉単山に依頼してそれを月舘八百八が彫ったという部分である(原文は、鋳銭記や岩手に於ける鋳銭に書かれているのでご覧ください)。一鉱山の山内通用銭でこれから密鋳に利用しようという銭の銭文を江戸の書家に依頼することなど、冗談としか思えない(おそらくみんなそのように考えると思いますが、、、)。
事実であれは、相当な金を払ったはずで、その支払いの記録がどこかにあるはずである。新渡戸仙岳氏はここまで書けば盛岡銅山自体が、冗談だと考えてくれると思ったのではなかろうか。しかし、氏があまりに偉大な人物であったため、みんなが信じてしまったか、おかしいとうすうす気付いても反論しなかったのではないか。

岩手古泉会雑誌2号には、古銭品評に盛岡の土井氏が背山母銭を出品されている(拓図)また、4号には新渡戸仙岳氏が鉄銭を出品されている。この2品は大正6年にすでに存在していた品である。2つの拓図をよーく見てほしい。現在、背山は裏の左下の波の交叉部に鋳だまりがあるものがよいとされているが、この2品はほぼ同じ波の上に鋳だまりが存在している。おそらく長い間人づてにつたわっていくうちに交叉部付近の鋳だまり、が、交叉部の鋳だまりになってしまったのではなかろうか。この当時は山形鋳とされていたが、4号で水原氏が、砂鉄ではなく岩鉄による製造であること、無背銭が当地に広く存在し、栗林大字(仰寶大字)と字態が似ている、背山字銭は南部地方に散在する、山形に銭座が存在する話がない、などを理由に南部鋳であろうと推測し、その用途は山内通用ではないかと述べています。自銭座で大量に鋳銭していた貨幣を山内通用とした例は南部地方にはありません。盛岡で古銭商を営んでいた引間氏は背山は年2回あった山の神様のお祭りに奉納された絵銭ではないかと言っていましたが、なかなかいいところをついていると思います。また、同氏は背山はたしかに雑銭からでてくるが、山の文字が面から突出している銭が多く、1個1個山の文字を砂型に押したのではないかとも言っておりました。
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