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そこには、盛岡銅山銭の制作枚数が書かれている
足し算すると、最大で2270枚、最小で1670枚になる。
この枚数は当然仙岳氏が水原氏に教授したものだろう。
こんな数では、当時盛況だった尾去沢鉱山の山内通用に回せるはずがない。
実際仙岳氏が作成したのはこの十分の一くらいではないか。
それにしても、全ての9割を占める三期銭が、まったく姿を現さない。
でてくるのは、1期銭と称するものばかりだ。
ところで、この大正7年には、宮寿氏はまだ銅山銭を作っていないから、
この時点での3期銭は必ずしも、黄色系で、カスの多い必要はない。
つまり、1期銭として売られているものの中に三期銭がたくさん隠れているのだろう。